M&Uスクール

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今週の喝 第737号(2019.6.3~6.9)この世は全て催眠だ(478)〜能力こそ全ての判断基準……!?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(478
能力こそ全ての判断基準……!?

 若気の至り」と言ってしまえばそれまでですが、コーラス部の部長に渡された指揮棒を得意満面で振った日を今思い返すと、顔から火が出るほど恥ずかしく思います。
 高校時代は、学校でのテスト、色々な競技会、また技術など全てが成績優秀な者が賛辞される、そんな時期でもあります。それに、私自身が得津武史先生の下、
 「コンクールで優勝する者だけが素晴らしい!
という教育を3年もの間受けてきました。その上、どんなイジメ(ダブルバインド)にも耐え抜いてきた根性も手伝って、「適当」「緩い」「中途半端」「キズの舐めあい」といった軟弱な心の持ち主は、許せないという“過激人間”に育っていました。
 私から見れば、高校生活は多くの中学の出身者の集合体で、中学時代に緩い教育をされた軟弱な人間達であって、“敵”にもならない存在でした。従って、みんなに宥和を執るどころか、完全にバカにしていました。日本の常識は世界の非常識というように、私の常識はみんなの非常識だったのです。
 一般社会ならボイコットの憂き目にも遭ったでしょうが、そこが高校生。能力のある者、格好良い者に憧れる時期であったため、クラスの女生徒にその指揮ぶりを褒められ、吹奏楽部に入らずに音楽室でフルートを吹いている……吹奏楽部員からしたら、最も嫌な存在だったでしょう。
 私は有頂天になっていました。本来、有頂天になると大体の人間は気を抜きますが、私の場合、基準がリベンジであったため、より一層音楽への情熱をたぎらせて行った時期でもありました。
 「若気の至り」とは、このように基準値が少なく、視野の狭いことを言うのでしょう。音楽に磨きが掛かっても、人間性(人格)は大欠陥を抱えていたのです。それは、人の心を無視した完全に非社会的な自分を作り上げていたことです。「惻隠の情」(弱者を哀れに思い労る気持)など、全くありませんでした。
 この時期の私の写真をアルバムから取り出して見ますと、全く笑顔がなく、他を威圧するような険しい顔をしております。一つ救いとなるのは、他者を見下すような上から目線の“ドヤ顔”でなかったことです。それはどんな顔……?と思われるでしょうが、口では説明できません。とにかく、「自分を自慢する」雰囲気を悪くする権化のような顔です。

 

★★間違ったエネルギー「怒り」!★★

 この頃の私は、一番大切な中学3年でのコンクールに敗北の憂き目に遭い、新品のフルートを市吹(西宮市吹奏楽団)から渡され、「自分は必要とされている」という自負心で自分を支え、全ての目的は「仙台での恥を雪(すす)ぐ」の一点に絞られておりました。不幸中の幸いは、他者(周囲)に対して意識することはなく、目指すはサミット(頂上)のみでしたから、周囲に勝ったと思ってもそれで気を抜くことはありませんでした。そして、フルートの練習にもより拍車が掛かり、ストイックに打ち込むようになり、より感性は磨きが掛かりました。
 今思えば、人はバランスの生き物だと気付くまでには、まだ後20年を要するのですが、当時の私は、市吹にいても、他の中学の卒業生や社会人たちの態度にはフラストレーションを感じ、少しピッチ(音程)が狂っても、イライラして、相手の気持ちなど何も考えずに、ただただ欠点指摘をより鋭い言葉で的確に言っていたのを思い出します。それでも、恐ろしいことに、音楽の世界はスポーツの世界同様に、能力ある者に下位の者が口を挟むことはありません。軍隊ならば「階級よりもメンコの数」つまり、何年兵隊をやっているかで幅をきかせることもあったでしょうが、楽器の世界、それも一般人の集まる吹奏楽では、飛び抜けた才能はそれだけで鋭敏な刃物になりました。これに気付いた私は、一年上の(私が二年生の時の三年生)人達には(虐められた)遺恨を持っていたので、憤怒の形相で練習に勤しみ、有無を言わせない格段の技量を身につけていったのです。
 完全に「小(お)山(やま)の大将」状態を、間違ったエネルギー「怒り」を起爆剤でキープすることを覚えたのです。本来、音楽は情緒や共感性から上達を指向するものですが、私の場合は完全に歪んだ方向と方法で自分を奮い立たせていました。
 今から振り返ると、やっていることは天空の調べを奏でることなのに、その内実(心)は鬼の形相他者排斥勝者の奢りから成り立っておりました。そんな折り、私が高校二年生の時です。吹奏楽連盟が吹奏楽だけではなく、各個人の技量を高める目的で、第一回アンサンブル・コンテストが開催されることになり、年齢から言えば、高校生の部で出場するのですが、「向かう所敵無し!」で、「そんなコンクールなど下らない」と見向きもしませんでした。ところが、得津先生は、
 「一般の部、市吹の代表として出場せい!」
と下命され、二つ返事で承諾しました。類項作用……類は友(良くも悪しくも)を呼ぶが如く、この頃に一人の人間と出逢います。同じ学年で、同じ楽器(フルート)を持った小林正樹君です。彼は、お父さんの関係で高校1年の時、我が町今津に引っ越してきました。神戸にある御影工業高校に通っており、確か中学校は神戸の鷹匠中学だったと記憶にあります。そして、フルートの腕前は、私のように先輩からの伝授ではなく専門の先生について学んでいることもあり、すこぶる秀逸でヘタをすれば負けるかも知れないというくらいのライバルです。そして、私同等、いや私以上の傲慢性を持ち合わせており、努力家でもありました。
 二人は当初、お互いに意識し合い、敵対的感覚でいましたが、どこから見ても互角です。次第に、お互いの家を行き来するようになり、(後の話ですが)彼と共に第一回アンサンブル・コンテストを、高校の部ではなく“一般の部”で出場することになります。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/