M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第728号(2019.4.1~4.7)この世は全て催眠だ(469)〜涙の仙台コンクール〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(469
涙の仙台コンクール

 騒がしかった満員の会場に拍手が起こり、それもすぐに水を打ったように静かになった。二千人の瞳がマイクの前の司会者に注がれた。いよいよコンクールの成績発表である。昭和41年11月20日午後2時58分、司会者の「中学の部第一位、東京代表……」場内はどよめいた。一瞬私の全身から血が引き、すぐ又津波のように逆流した。夢想だにしなかった事態が起こったのだ。司会者の間違いでは無いかと思ったが、例年聞き慣れた「中学の部第一位、関西代表今津中学校」の声はついに聞かれなかった。
 今日の演奏は最高であった。私は音楽に関しては素人ではあるが、過去二回のコンクール及び数々の演奏旅行に同行して少しは音楽を聴く耳も出来たはずである。そのいずれの演奏にも負けない立派な演奏をしてくれた。東京の豊島第十中学も良い演奏をしたが、私がいくら贔屓目に見たとしても今中より上だったとは決して思えない。その証拠に、中学の部の全演奏が終わった後、会場のあちらこちらで「今年も今津中学校のものだ」との声が聞かれた。それなのに今中は負けたのだ。表彰式の際、子供達は皆泣いた。誰一人として頭を上げる者はない。父兄も泣いた。
 しかし、会場を一歩外へ出たとたんに私は元気が出た。そこには、成績発表がしてあり、黒山の人だかりで、メモをする人、写真に撮る人、知人と指さしながら話し合う人など、私もそれを写真に撮りくわしくメモをしていると、今中は演奏で負けたのではない、審査方法に負けたのだと言うことがはっきりとした。
 簡単に説明してゆくと、審査員9名(東京在住者8名、大阪在住者1名)のうち各人の総合計で、今中一位が6名、富田中一位が2名、豊島十中一位が1名。課題曲(70点満点)では、今中一位が5名、豊島一位が3名、富田中一位が2名。自由曲(30点満点)では、今中一位が7名、富田中一位が3名、豊島一位が2名(同点重複あり)。これを見れば今中の完勝である。しかし、審査員の総合計点と言うことで、おしくも1.7点の差で今中は豊島に破れたのである。9名の審査員のうち、1人しか一位を表していない豊島が、6名一位を表している今中に勝ったのである。誠に不思議な審査方法である。
 また、審査員の採点も同じ自由曲であり乍ら、満点の30点をつけた人が2人もあり、また19.5という3分の2の点をつけた人もいる。人間が審査をすることだから多少違いはあるとしても少しひどすぎるではないか。これではどの審査を信用したらよいのか私も見当が付かない。しかし、真実は音楽の分かる人に、今中と豊島の演奏を録音したレコードを聴いてもらえばはっきりする。しかし負けたのだ。……(つづく)

 

★★熱血漢の父、梅谷郁郎★★

 上記の文章は、我が今中の第14回全日本吹奏楽コンクールの演奏を録音したレコードジャケットに、我が父・梅谷郁郎(いくお)が応援から帰る東北本線、特急「やまびこ」の車中で書いたものです。
 我が父は、昭和一桁生まれの熱血漢でした。これまでも我が生涯に於いて、“ことごとく”といって良いほど私の人生を自分の指向に合わさせようとしてきました。つまり、何をやっても反対してくるのです。今、冷静に考えると、当時の日本の親父は須(すべから)くこのような風潮にありましたが、私からしてみれば“宿敵”の存在でした。以前にも書きましたように、他クラブの父兄が、
 「ブラバンに入れば、勉強が出来ない
というと、それを真に受けて強引にテニス部に入部させようとしたり、それを聞かずに意志を通して吹奏楽部に入部したら、今度は
 「成績がちょっとでも下がったら、ブラバンを辞めさす!
などと、脅迫に近い上から目線の人でした。後に、父に何故テニス部だったのか?と問うと、
 「(当時)皇太子さんと美智子さんはテニスで知りおうたからや
という単純なものでした。悪く言えば「独善的」、良く言えば「情熱家」でした。この父がいたから、私が父の言うようにならないためにも、私は頑張ったのだと思います。このような性質の人ですから、私が一所懸命勉強し、フルートも朝比奈隆先生(大阪フィル常任指揮者)に褒められると、得津先生にたいして、
 「何でも手伝いまっさかい、言うとくなはれ。演奏旅行も、先生が来るな言わはるまでどこでも行きまっせ。ワシは先生が好きでっさかいナァ
と、まあこんな豹変ぶりです。“単純”と言えばそれまでですが、ある意味で超素人の眼……上記の文章「涙の仙台コンクール」は「世間の代表」の眼から見た、第14回全日本吹奏楽コンクールの実情で、今読んでもすこぶる正確に当時の状況が記されています。
 後に、この“事件”が私の人生を音楽家へと誘うことになるのですが、まだその頃は、私の心中には無念さしかありませんでした。
 父が記したこの事実を今の私が判断すると、吹奏楽コンクールは、スポーツ競技の様相を呈していたのだと思います。

この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/