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今週の喝 第717号(2019.1.14~1.20)この世は全て催眠だ(458)〜「他力本願」って何……?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(458
「他力本願」って何……?

 私が今、このように自分の幼少期・中学生時代を振り返ってこの「喝」を書いているのは、何も自分史を伝える目的ではありません。私は、自分の半生を振り返って、本当に奇遇な出逢いが多くあり、自分が持って生まれた能力を活かすことが出来たのは、まさにその出逢い……強いて言えば、その人達との共感性によって自分が生かされてきたことにあったと痛感しています。そして、ぐるっと周りを見渡せば、私よりはるかに勉強に励み、程度の高い学校に通った知人・友人も、齢60を超した現在では、少々輝きを失っている人の方が多いのです。
 これは、この世は自分の能力や才能、また努力といった「自力」だけでは成り立たないことを示しています。まさに、私の出身大学である京都「大谷大学」の教え……親鸞上人の説かれた「他力」がそこに働いていることを実感します。親鸞は人生を推進するエネルギーは「他力」が基本である故、他力の効力をシッカリ認知し、その上に生き様を形作ってゆかなければならないとし、それを“他力本願"と呼びました。
 しかし、この“他力本願"を浅学非才の輩は、
 「何もせず、他人を頼みにする“他人本願”
と混同して、人任せこそ本懐と思っているようです。これは、大きな間違いです!
 「他力」とは、この世に存在する我々にはどうすることも出来ない宇宙法則のパワーなのです。法則摂理、宗教家なら「」といったパワーです。ですから、浄土真宗では、「他力」を実感することが平民には困難である故、それを仏様(阿弥陀仏)に具象化して信仰の対象としました。また、そのご利益はとても大きいので、南無(Great)を冠し、「南無阿弥陀仏」としたのです。その意味は、「阿弥陀さまに全てお任せ致します」ということです。それは則ち、世の法則に逆らわないという宣言でもあります。
 また、このエネルギーを般若心経では「」と表現し、全てを産み出す根本的法則性のことを指しています。ただし、「他力」も「空」も我々に働きかけているエネルギー体ですが、眼に映る訳でもなく、それを実態として把握することも出来ません。しかし、物事がその形を作り出すためには絶対的に必要な法則ですので、そこから「色即是空」という文言が生まれました。

 

★★身体に染み込むまで訓練せよ!★★

 これに反して、「自力」は形にして表現することが出来、体現してみせることも出来ます。努力忍耐勇気などの心の動きは、それを行動に移すことによって表現することが可能です。このように唯物論者は「眼に見える物質そのものが全ての根源」と考えていますから、学校や会社では、テストや入社試験など一目瞭然に評価できるものをバロメーターにして、人間を判定してきました。
 “自力”と“他力”……それは「現象」と「法則」のような関係と思えば良いのです。そして、それは見えるとか見えないといったものではなく、感じるか感じないかで、ここが大切なのです。
 私たち今津中学校吹奏楽部のメンバーは、指導者である得津武史先生から、「迅速・丁寧・継続・忍耐」という努力の基本4原則を潜在意識に叩き込まれました。潜在意識とは無意識のこと……もっと簡素化して言えば、「クセ」です。クセは身体に染みつき、無意識化したものですので、意識や頭脳を通しません。つまり、朝から晩まで練習につぐ練習で、私たちは身体に音楽観や楽器演奏技術を直接身体に叩き込まれたのです。これを「訓練」といいます。「訓」とは、「身体に染みこませる」と言う意味があります。「訓」の付く熟語は、頭脳で理解するのではありません。「訓示・訓育・遺訓・教訓etc.」、全てが頭脳ではなく身体に染みこんだ状態にすること……つまり、“自動的に反応するようになる”こと、潜在意識にinputすることなのです。これを「癖化(へきか)」といいます。
 京セラ創設者の稲盛和夫さんは「潜在意識に透徹するまで……」とよくおっしゃいますが、その真の意味は、
 「頭脳を使わずとも自動的にその作業や思考に反応するようになるまで訓練せよ
ということです。
 また、訓練が為されたかどうかは、その事柄を「夢」に見るかどうかで判断することが出来ます。つまり、潜在意識に透徹したものは、無意識に体現する「夢」に出てくるかどうかで判断できます。これを仏教の世界では「薫習(くんじゆう)」といいました。仏教用語としては、少々難しい説明が為されていますが、私たち凡人は、
 「訓練したことや学んだことが、自然に薫り出てくるようになると本物!
と解釈しておけば良いと私は考えています。
 つまり、「訓」……染みこませた(input)ものが、「薫」……自然に薫ってくる(湧き出す=output)。これが、「身についた!」と言うことです。私たち吹奏楽部員は得津先生によって、音楽を叩き込まれた……いや、染みこまされたのです。それは、「自力から他力へと昇華」していったと言っても過言ではないでしょう。 

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/