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今週の喝 第706号(2018.10.29~11.04)この世は全て催眠だ(447)〜栄冠への道筋!〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(447
栄冠への道筋!

 昭和40年11月の長崎県民会館で行われた全日本吹奏楽コンクールで、見事に5回目の優勝を果たした我が今津中学校吹奏楽部は、ジェットの二郎が作った
 「吹奏楽日本一!今津中学
と書いた横断幕をバスの両サイドに吊し、ドンチャン騒ぎの中、一路ふる里今津に向かって陽気な凱旋ドライブを楽しみました。
 現在の吹奏楽コンクールは、金賞銀賞銅賞と三種類のランク付けがされ、全日本大会まで行った学校は、全てどれかの順位が貰えます。つまり、全ての賞は複数校あるのです。金賞3校、銀賞4校、それ以下は銅賞というように……。また、後でそんなシステムになった経緯に我が今津中学が大きく関与していることを伝えますが、長崎大会の頃は、まだ1位2位3位までが入賞で、あと数校が努力賞などの「次に頑張って下さい」という意味の賞でした。ですから、1位はたった一校で、まるでスポーツのような祭典でした。そして、吹奏楽連盟の規約では、1位を3回連続で取得すると4年目は招待演奏となり、全日本のステージで模範演奏をします。
 私たち今津中学は、得津武史先生が吹奏楽顧問に就任して2年目の昭和32年12月、全日本吹奏楽コンクールに課題曲『ミリタリーエスコート』と自由曲『詩人と農夫』を演奏して、3位を獲得しました。そして、翌年の名古屋大会も3位、そして34年は福岡県の八幡市民会館で2位を獲得し、着実に全国制覇への実力を付けてゆきました。当時の強敵は愛知県の蒲郡中学で、体育館には「ガマ退治!」と横断幕が掛かっていたのを、小学生の私は通風孔から垣間見たのを覚えています。
 そしてついに昭和35年、地元大阪の中之島フェスティバルホールで開かれた第8回全日本吹奏楽コンクールで念願の初優勝を勝ち取ることができました。曲目は『行進曲リトル・ジャイアンツ』と『歌劇 シチリア島の夕べの祈り 序曲』でした。

 

★★重たいバトン★★
 今の吹奏楽コンクールは金賞が数校ある為、音楽に対してもあまりピリピリ感はないようです。しかし、その反動で銀賞になると、昔の4位や5位以下でショックも大きいでしょう。私が現役の時代は違いました。
 それこそ、今のオリンピック選手さながらの緊張感で全国でただ一つの頂点を目指したのです。そして、それを獲得した後の凱旋ドライブのバスの中は、緊張からの開放感でそれはもう無礼講の様相でした。
 バス前方に陣取った先生方は、今では信じられないでしょうが、チューインガムを掛けて博打を始めます。その博打も至極単純なもので、トランプを繰り、それをそのまま補助席に積んで上から一枚ずつ引いてゆき、多い数を引いた者が勝ちでチューインガムを貰うというもので、カードの選択権など全くない、運を天に任せるゲームでした。そして、バスの後方では、3年の悪ガキが胴元となって、これもまたチューインガムを掛けてポーカーをやっています。また山口県に差し掛かった頃、ドライブインで
 「優勝祝いのお土産で、うちの親父に日本酒を買うんや
と多くの者が購入しましたが、バスが神戸に到着する頃には2,3本の酒瓶がバスの床に転がっていたのを覚えています。現在ならば、
 「日本一の吹奏楽部の生徒が飲酒!
などとマスコミに書かれ大事に発展したことでしょうが、当時の新聞記者は、その酒瓶を見て生徒達に
 「勝利の美酒は旨かったやろ!
と共に喜んでくれました。時代が違いました。
 そして、夕方近くに母校にバスが到着する時には、先生方や大勢の生徒が出迎えてくれました。全員が喜色満面の楽しい祝賀会が催されたと同時に、各パート毎に、我々2年生に3年生から重たいバトンが手渡されました。この年の3年生達は、まとまりのない学年と思われていた分、日本一の業績を獲得した時の自信は並々ならないもので、後に日本一のドラマーと謳われる“村上ポンタ秀一さん”など素晴らしい音楽家も誕生します。そして、その会場には1年生も参加して、来年に向けて既に新たな編成が組まれました。
 翌日、朝礼の場を借りて優勝報告をし、優勝旗優勝カップを校長先生に手渡す儀式がありました。その時、我が得津武史先生は朝礼台の隅の方に陣取る教職員の列で、サングラスを掛けて感無量の面持ちで、その光景を眺めておりました。「生徒の功績や!」と言わんばかりの謙虚な態度に、いつもは天ぷら棒の嵐で尊敬などほど遠い先生に、初めて感動したのを覚えています。

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/