M&Uスクール

潜在意識の有効活用を教える学校”M&Uスクール”のサイト

今週の喝 第696号(2018.8.20~8.26)この世は全て催眠だ(437)〜「心と身体の関係」にお金が加われば……?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(437
「心と身体の関係」にお金が加われば……?

 最近、そこら中でスポーツ系のパワハラ問題が露見してきています。日大アメフト部、日本ボクシング協会など、そこには「ドン」と呼ばれる親分がデンと構えて、「我に逆らう者は、容赦はせんぞ!」とばかりの権勢で采配を振っています。昨今のTVは、彼等をみな悪者扱いしていますが、そのような人達も当初から現在我々の前に露呈されているような人格では無かったように思います。始めは正義感に燃えて、私事よりも公的集団のことを優先して全エネルギーを注いだ結果と推測します。でなければ「ドン」には決してなれないでしょう。
 ハラスメント(Harassment)とは、「何らかの方法で相手に苦痛を与える行為をすること」をいいます。それは、セクシャル(性)、パワー(権力)、アカデミック(学閥)など、多岐多様に存在します。最近は、このようなハラスメントを社会が一丸となって駆逐する方向に向かっていることは、時代の流れだと感じます。
 運動部にいた私たち世代の人間は、喉が渇いてもそれに耐えることで根性が生まれ、その精神的基盤の上に自分の活路を見いだして踏ん張りの基を作り、成績を上げてゆきました。それを凝縮すると“忍”の一文字となります。いわゆる「精神論」です。
 これは、持たざる国“日本”が、その歴史と共に培った武士道精神と相まって伝統としてきた文化です。私個人は、この文化は継承されるべきであると考えますが、現代社会は、物質文明が行き渡り、「」という対価交換の基準が整備された為に、肉体的負担を軽減することが容易になりました。簡単に言うと「金で解決する」という風潮です。
 従って、精神と肉体の関係に“金”という新たなる基準が加わり、本来神聖であるべきスポーツやその他の芸術的技量でさえ、その純度が落ちてきたように思います。

 

★★苦への挑戦は、その意味の発見から!★★
 私たちは「ハラスメント」に耐えることによって、何ものにも屈服しない自立心を己の精神に培ってきました。先に述べた「ドン」達も、私が推測するに、当初はこのハラスメントを乗り越えてきた戦士達であったように思います。しかし、地位や権力、金銭という“社会的パワー”は、一度手中に収めると、その絶大な効果故その維持に躍起になり、精神を歪めてゆくのです。その大きな歪みはやがて新たなるハラスメントとなり、他者を圧迫し、新たにその圧迫に抵抗するエネルギーを生み出します。正に、「歴史は繰り返す!」。人間は先人達から学ぶことが中々出来ません。
 世の中は“屈する”か“抗する”かによってその生き様や威信は決まります。それは、その人間の生存エネルギーの強さに掛かってくるのです。その生存エネルギーの精神的要素は、このコラムでも幾度も書きましたが、レーゾンデートル(Raison d'être=存在意義)の覚知に依ります。
 釈尊(釈迦)の悟りの始まりは、この世に厳然と横たわる“”(生老病死)の認識でした。それは、いくら泣いても叫んでみても襲いかかってくる非情なものです。釈尊は、この苦を人生に活かすことこそ悟りであると解し、それを“修行”という形で実行し、それを克服する精神と肉体を求めたのです。現代スポーツに於いても、「健全な精神は、健全な肉体に宿る」といわれる所以です。
 ここには釈尊の「苦に対する存在意義の発見」がありました。苦の存在意義を発見した者には「明鏡止水」の境地がおとずれ、その穏やかな精神的波動は発展途上の未熟な者達に憧憬的影響を与え、自らは泰然自若とした風格が備わります。「師」と慕われる者は、苦に対して屈せず抗せず、己自身の心の奥底から湧き上がってくる挑戦心に対して忠実に従い、それを己の“修行”と覚知して取り組みます。
 私はハラスメントを容認する立場を取る気は全くありませんが、人間社会に身を置く以上、前述したようにハラスメントは必ず起こります。そんな時、そのハラスメントに対する存在意義が分からなければ、屈しかねません。それを釈尊のように“修行”と解釈し、自分の人生に取り込んでゆく事ができれば、その人間の人生はバラ色にかがやき、将来、多くの人間を導く立場に立つことは間違いありません。
 釈尊の悟り……「この世は四苦八苦!」と宣った真の意味は、苦を克服せよ!つまり、その必要性を認知せよ!という我々に対する教えなのです。
 「かわいい子には旅をさせよ」という格言も、わざわざ愛児に苦を与える事をせよと言っているのではなく、その子に降り掛かる災難や苦痛をこの世での“修行”と覚知させるのが親の役目であると私は解釈しています。つまり、避けることの出来ない業縁(事象)には、必ず大いなる意味(Raison d'être)があり、その発見こそ人生の真の目的だと思います。
 私のこのコラムでの述懐も、いよいよ中学二年生に入ります。私の人生で、今振り返ってみてもこれほど私の心が揺れ、これほど挫折しかけた一年はありませんでした。正にハラスメントのダブルバインドに立たされたのです。そこで、ふたたび山中鹿之助の登場です。
 「天よ、我に七難八苦を与え給え!」

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/