M&Uスクール

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今週の喝 第694号(2018.8.6~8.12)この世は全て催眠だ(435)〜楽器との出会い……その意味は!?〜

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

潜在意識ってどんなもの? 

この世は全て催眠だ(435
「求めよ、さらば与えられん」その真の意味は!?

 このコラムでずっと書き続け、私が読んで下さる皆さんに伝えたいことは、「出逢いによって人生が変わる」ということです。
 そして、先人達は、「人生を変えるような出逢い」のことを“邂逅”と呼びました。“邂”も“逅”も「めぐりあう」という意味ですが、前者の部首の“解”は「わかる(分)・さとる(悟)」、“后”は「きさき(妃)・のちに(後)」則ちバックアップという意味です。そして、それに“しんにょう(辶)”が付いています。「しんにょう」は、歩くとか進むという意味を表しますので、「邂逅」の“邂”は悟りを求めて進む心、“逅”はそれを支えてくれる何かを求めて止まない心のことです。従って、“邂逅”は自分が求めるものの意味、「なぜ私はそれを求めるのか」という自分の探求心を、確固とした信念をもって“苦”に耐えうるまで研ぎ澄ました時に生じる「出逢い」です。簡単に「めぐりあう」と言いますが、「巡り巡って」やっとの思いで「出逢う」事です。
 聖書のマタイによる福音書、第7章7節に、「求めよ、さらば与えられん」とあります。
 この「求めよ」という言葉は本当に深い意味の言葉だと私は思います。多くの人間(凡人)は、自分の楽得のためにモノを求めます。しかし、あらゆる物事に“快”を感じ、それを感受すると同時に、自分自身も「快を与える側」になって、世のため人のために役立ちたいと思った人間は、
自分は何故この事に執着し、何を成そうとし、誰を求めているのか
無意識の内に知りたくなり、そして、その心はやがて大いなる欲求となって周囲にアンテナを張り巡らすようになります。その心と呼応して、天(Something Great=法)は、我々にその意識(器)に応じた出逢いを与えてきます。

 

★★“信じる心”と“疑う心”はどちらが強いのか?!★★ 
 人間、須く「類項作用」の中で“生”を育んでいます。ですから、“邂逅”がもたらされるかどうかは、その人間の気付き如(いか)何(ん)に依ります。邂逅は、何も師君や伴侶といった人間の出逢いだけに限りません。私のように楽器との出逢いも邂逅です。また、職業や感覚感情がもたらす情緒など感銘の心も邂逅を呼び起こします。つまり、あなたの心がどれほどにその事に執心し、求めるのかによって邂逅の度合いは決まるように思います。
 しかし、誰しもが邂逅を得られるとは限りません。邂逅の邪魔をするのは何かを考えて見ると、それは、自分自身の心の中にある「真理に対する追求心」を阻害する要素があることに気付きます。もっと端的に言うと、「気付きを邪魔するもの」の存在です。それは、自分の心中にあります。先般、
 「勉強できないのは、頭が悪いのではなく、勉強する意味に気付かない子供だ
と言いましたが、この意味を教える“師”の存在に出逢うか否かも、その人間の心意気にあるのです。では、この心意気はどのようにして育まれるのでしょうか。それは、持って生まれた感性感覚(前世因縁?)と、生まれたところの環境や教育で決まります。
 前世因縁と言ってしまえば“修復不可能”の感を受けますが、前世という不可解なモノを信じるか?疑うか?ということで、私たちのモチベーションは変わってきます。私のことを喩えにしますと、
 「私はもしかしたら前世でも笛吹きで在り、やり残したことを今世で修復しようとする意志が無意識(潜在意識)に秘められて(inputされて)、生を受けた……!」
それ本当?!と言いたくなるような話しですが、これは、本当・嘘はどうでも良いと私は考えます。ならば、こんな荒唐無稽とも思われる話しを何故するのかというと、前世があり、その系譜の上に現在の私があると考えると、不思議と私の心にやる気や勇気・元気がホツホツと湧いてくる感覚が起こるのです。また、苦しいことに遭遇した時も、それには遠因があり、今世でそれを払拭するためのモノだと考えると、不思議と耐えられます。
 多くの人間は、自分自身が勉強することを嫌がる割には、“本当や嘘”といった二元論で「本当」を求めようとします。しかし、勉強していないのでその基準は定かではありません。不明瞭な基準の上の探求は、単純に「疑念」しか生み出しません。従って、この世には“信じる”ことを知った人間と、“疑う”ことで社会を渡っている人間の比は、よく見積もっても“5:95”くらい疑念が蔓延っているように思います。つまり、人は人を信じられないのです
 「当たりまえだよ。信じたら騙されるからね!」
という人が多くいますが、騙される人間は、信じているのではなく、「楽と得」を求めようとした結果、世の摂理が見えなくなってしまうのです。
 この世に宗教が誕生したのは、このような邪悪な心の修正……信じるところから自分自身の中に宿るエネルギーの存在に気付かせるための、賢者・聖者から生まれた智慧なのです。

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/