M&Uスクール

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今週の喝 第692号(2018.7.23~7.29)

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

成功への道しるべ!この世は全て催眠だ433

 

成績の悪い子はいるが、頭の悪い子はいない

 
 私の苦手な教科は国語だったにもかかわらず、後にも先にも一回だけ作文コンテストに入賞した体験は、大きな気付きをもたらしました。
 今になって、なぜ「国語」が苦手で「社会」が得手だったのかを振り返ると、その教科担任との相性が大きく左右していたことです。以前にも、社会の井ノ口先生の眼を見ていると恰も、
 「ここをテストに出すぞ」
と言わんばかりの訴えかけが、それこそ「目は口ほどにモノを言ってくる」のです。それは、脳学者の中野信子先生流に言うと、目を見つめ合うことで、脳内に愛情ホルモンの一種である「オキシトシン」が双方に分泌され、互いに意思の疎通が積極的になり、言葉を介さずとも分かり合えるようになる……俗にツーカーの仲というように心が通い合うのです。その時の心の状態は、すこぶる双方とも“素直”ですから、人間関係はとても良好になります。愛し合う者同士が眼を見つめあうのは、このようなホルモンの分泌によって“快”の状態がもたらされるからです。
 要するに、素直な心でいると相手に対して疑いや恐れを抱かなくなります。私は、自分の心の中に「国語教師が嫌い=国語は苦手」と無意識に観念付けていたようです。
 このように考えてゆくと、世の中に「頭の悪い子」はいないけれども、「成績の悪い子」は存在します。頭は、天才と呼ばれる特殊な脳構造を持っているごく少数の者以外は大同小異、ドングリの背比べ程度の差しかありません。しかし、その僅少の差も、積小為大!長年月の積み重ねで、人生の優劣に発展してゆきます。その初動は、“好き嫌い”という、とても感情的な心の作用からスタートします。しかし、子供も親もそれに気付いていないので、修正することは至極困難なのです。

 

★★「素直」を植え付けることこそ教育の根幹★★
 
 素直な心を持った子に育てれば、その子はシッカリと才能を開花させて行く事は必定ですが、人間にはそれぞれの立場が存在します。親と子、教師と生徒、男と女といったように、すべて相手がいなければ成り立たない対応関係にあるにも関わらず、人間は自分の側からモノを見て、感じ、その感性で言葉や行動を起こしてしまうので対立が生じるのです。しかし、ちょっと冷静になれば、親も子の時代があり、教師も生徒の時代があり、男女も相手に好かれようとする感覚がある以上、その感性をちょっと逆の立場から感じてみれば、キリストの最大の教えである“黄金律”的見地に立って人間関係を育むことが出来るはずです。“黄金律”とは「して欲しいことを相手に施す。されて嫌なことはしない」という至極人間的な法則で、それは「快」への最短距離でもあるのです。そして、このことを子供に理解させるのが教育の根本なのです。
 人間は、好き勝手にさせれば“相手”の存在が見えなくなる性質を持っています。しかし、人間は社会を構成しないと一人では生きて行けないように、神は我々を創造しました。その禁を破ったところで、争いごとや問題は起きるのです。人間にとって“自由”は最も大切な精神基盤ですが、“勝手”はいけません。自由と勝手……この似て非なるモノをシッカリと私に分からせてくれたのが、楽器との出会いであり、その集合体であるオーケストラや吹奏楽であり、それを指導教育してくれた師です。
 人間社会に於いて、自由闊達な人間の振る舞いは周囲を明るく快活にしますが、勝手気ままな行動は迷惑至極。不愉快な雰囲気をまき散らします。その要素を分析してゆくと、心が揃っているかバラバラか、脳内伝達物質的説明をすると、オキシトシンが出ているかどうかとなるのです。
 吹奏楽の奏でるマーチ!そのリズムに足並みを揃えた行進は、気分爽快の何ものでもありません。私たち、今津中学校吹奏楽部が日本一を獲得できたのは、もちろん、人一倍の練習もありますが、それ以上に、みんなの心が一つに揃った時の爽快感を得津先生が感じさせてくれた上に成り立っていました。練習はハッキリ言って“苦”です。しかし、その苦を上回る“快”の体験を味わわせてくれたことで、脳回路に
 「苦を克服すれば、必ず快が訪れる
という、単純明快な図式を刷り込んでくれたことが、今の私の精神状態を構成しているのです。そして、脳回路に留まらず何事も「一事が万事!」。人生全てに対しての苦への挑戦心も湧き上がってくるのです。その根本には“素直”の二文字があることを得津武史先生によって叩き込まれました。
 オリンピック開会式を、練習をサボって見たにもかかわらず、天ぷら棒が頭上に落ちなかったのも、そこにシッカリとした“道理”が存在し、その道理を先生が見抜いたからだと思います。それは、自由と勝手が似て非なるものであるように、同じサボりでも、そこに道理、道義があり、それが、心からの欲求となったことを先生は味噌糞いっしょにせず、その真意を汲んでくれての所業であったと今は回想します。

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/