M&Uスクール

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今週の喝 第657号  (2017.11.20~2017.11.26)

潜在意識の大活用・あなたが変われば全てが変わる

 成功への道しるべ!この世は全て催眠だ398

 

                 悪知恵は、人間独特の感性!
                                  

悪知恵……自ずから湧いてくる“楽と得を求める性質”の中で、人に迷惑を掛けるアイデアのことです。人間の能力は、それを善に用いるか、それとも悪に用いるかによって、全く正反対の評価となります。
 動物の根柢にある「出来る限り“省エネ”で暮らす」本能に、我々人間は“時間感覚”が加わり、将来的に「省エネ」でありたい故、そこに人間独特の“欲望”が生まれました。
 大抵の動物は、寝・食・性……つまり、身体を動かさず、活動に必要な食べ物を摂取し、そして、子孫繁栄のための生殖活動をすることで、その一生を終えます。NHKの「ダーウィンが来た!」でトドの生態が放映されていました。特に雄のトドは「喰って、寝て、そして交尾をする」ことの繰り返しです。正にNow & Here……現在のみを生きて行ければそれで成功なのです。しかし、人間はそこにもう一つの次元である“時間”を認識し、現在だけではなく未来の安寧も望むようになりました。その結果、寝・食・性に“金・名”(財産と名誉)を欲する心が生じ、それを求めるために現在の社会システムが出来、より複雑な生態系を形成したのです。
 この“金・名”を求めるために、人は“知恵”を働かせ、やがて、本来の社会性=共存共栄の観念が薄らいで、自分さえ「楽と得」であれば良いという我利亡者が生まれたのです。
 何度もこの項で話しているように、人間の持つ才能は“才能のみ”では社会的有用性はありません。簡単に言うと、その人間の才能は、天性のモノ……すなわち天より与えられたモノであるが故に、世のため人のために用いられなくては只の暴力・我利に過ぎません。よって、「才能」には「人格」がバランス良く牽制球を投げることで、欲望の暴走を抑えられるのです
 但し、欲望が満喫されると“快”が生じ、催眠状態になりますので、解催(催眠状態から元に戻す)する必要があります。でなければ、快(=ほとんどの場合が我利・亡者)に溺れて、社会性(他者への配慮)を失ってしまいます。

 

★★当たり前の法則「黄金律」★★

 智恵を、善用するか悪用するか……これが“人格”の分かれ目です。それには人間本来の動物的本能「楽と得を求める」ことに、“我利性”が加わり「自己本位」に成ってしまうことを学ばなければなりません。自己本位は、周囲の人間には“不快”を撒き散らし、己のみの“快”にふける悍(おぞ)ましい状況を生み出します。
 全ての生きとし生けるものは、生老病死を経験し、その中でも霊長類である我々人間は集団を形成し、その中にリーダーが生まれ、そのリーダーはその集団全体の幸福(=快)を作ることで、周囲より認められ尊敬される必要があります。それに最も大切な要素は“人格”です。人格とは、常に自分を修正してゆく(格(ただ)す)能力のことをいいます。その修正能は“彼我一体”……同じ状況下で「自分が苦しければ他者も苦しいかも知れない」と察する心を持つことで育まれてきます。
 他の動物とは違い、時間感覚から“金・名”の欲望を持ってしまった我々人間は、この彼我一体の感覚を教育によって教え込まれ、それを修得することで社会性を持つようになります
 「恥・迷惑・礼節」など人間独自の文化は、このような社会性の中から生まれ、それらを陶冶することで集団の中の“名誉心”に気付くのです。人間以外の集団(動物)のリーダーは、絶対条件として「強さ」が自然界(天)より求められますが、人間はこの上に「人格」と「智恵」が必要なのです。しかも、智恵はそれをその集団のために用いなくては“悪知恵”として逆作用し、人望をなくしてしまいます。
 日本の武士やイギリスのGentlemanは、このような社会性を教え込まれ、それを自分の使命と認知して、集団(国家や社会)のためにその人生を捧げることを肚に据えた真のリーダーの姿です。その精神の根幹は、
 「自分がして欲しいことは、他者(ひと)にもしてあげなさい
と宣ったイエス・キリストの言葉に集約されます。これは、社会性を保つための最も大切な人間の規律です。
 従って、これを「黄金律」と呼びました。正に、イエス・キリストは、その短い生涯でこの「黄金律」を人間関係の第一義に挙げ、世の人々の安寧の基盤を指し示したのです。
 日本では浄土真宗の開祖・親鸞上人も、
 「自分がされて嫌だと思うことは、他者にしてはいけない
と、真逆の表現でありながら、キリストと同じ事を説いています。
 このように、我々は聖人たちに教えを受けて気付くのです。滾々と湧き出ずる“智恵”も、それを統御する“人格”を育てて、初めて叡智となるのです。キリストや親鸞の言葉は、聴いてしまえば“当たり前”なのですが、それに気付くには、相当の人格を育まなければ成りません。

   この続きは、来週のお楽しみ……('-^*)/