M&Uスクール

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4.アウシュヴィッツの概要

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 アウシュヴィッツと言えば映画などにもよく映し出されている、あの有名な「ARBEIT MACHT FREI」と書かれた鉄門が入り口となっている場所です。

 そして、何と私達のガイドは私自身もお会いすることを楽しみにしていた 中谷 剛さんでした。HPでもそのガイドぶりを拝見していましたので、初めてお会いした感覚がなく、彼のすぐそばで彼の説明する言葉に意識を集中することにしました。

 中谷さんは1997年に公式ガイド資格を取得され、今年で20年が経過している唯一のアジア人ガイドなのですが、では何故、日本からここアウシュヴィッツの意義を伝えるガイドになろうとしたのでしょうか? 彼はこう答えています。

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 何故ポーランド人たちはこんなに一生懸命戦争の歴史を伝えようとしているのか、当時はその意味がわからなかったんです。それでアウシュヴィッツ博物館に来てみたらガイドさん達がいて、「あ、ここのガイドになったら、戦争の歴史を伝える意義を中から教えてくれるかな」と思ったのがきっかけでした。

「あなたは日本人にわかりやすいような案内をするように心がけなさい」と背中を押されました。今でも日本人しか案内していませんし、今でもアジア人ガイドは僕1人です。

  昔は生還者の方がガイドをされていたようですが、その生還者の方々が案内するのを見て学んだことは何ですかという質問に対して、非常に興味深い答えがありました。

 それは、生還者が「淡々と話す」ことです。涙を流すどころか、淡々と話すんですよ。ここにまず感動しました。僕の想像だと、あの時代を思い出してすごい思いをしながら話してるのかと思ったら、淡々と話しながら、時々笑うわけですよ。にこっとしながら、冗談を言ったりもして。こんなにひどいことがあったのに、その場所に戻って来てですよ? それにすごく惹かれてしまって...。あー、こういう世界もあるんだとか思って、人間というものの不思議さというか、「何のために伝えるのか」という究極の場面に出会うわけです。だから、そういう人とは個人的に付き合って、仕事終わりに毎日駐車場でべらべら話したりしました。その経験は、今でも結構支えになっています。

 

 戦争を経験していない世代には、アウシュヴィッツの歴史から距離があるからこそ、「じゃあこの歴史をどう理解して、どう将来につなげていこうか」というところまで議論することができると思います。直接被害を受けて、痛みを受けた人は、あまりにも傷が深すぎて、そこまで話を発展できないこともあるでしょう。だからこそ、今の問題にどうアウシュヴィッツの歴史をつなげて議論していくかが、戦争を経験していない僕たちの役割なんだと思います。

 

 ヨーロッパにとっても、人種差別やユダヤ人問題というタブーに近い難しいテーマに立ち向かうのは、被害を受けた本人たちではなくて、次の世代なのです。

 広島の被爆やアウシュヴィッツの迫害の歴史を理解した上で、そこから今現在社会に山積している問題にどう立ち向かっていくのか。人種差別などといった難しい問題に、次の世代の人たちが立ち向かっていけるかどうか。ここの部分が僕たちに求められていることなのです。

 

 アウシュヴィッツ=ビルケナウには世界中の人々が訪れています。視察途中にすれ違った中国人の団体もいましたが、ガイドの中谷さんにお聴きしたところ、中国人はまだ年間千人くらいだと言う事でした。中国人の立場からアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の感想が聞けるのはこれからでしょうが、今から本格的に武装しようとしている国の筆頭なのですから、きっと複雑な立場ですし、国家と国民が切り離されているような国ですから余計に国民がどう感じるのかを知りたいものです。ちなみに日本人は年間3万人ほど訪れるようになったそうです。

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いよいよ建屋の中に入ります。前の班にはイスラエルの高校生?が研修に来ていました。

 

 

 

 

第4棟 殲滅(せんめつ=皆殺しにすること)

 先ず私達を迎えてくれたのは、強制移住者を乗せた列車が

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どこから出発したかを表すため、最も重要な都市名を記したヨーロッパの地図でした。そして、綺麗な砂時計のような壺が置かれていましたが、これはここで殺された(1940-1945)人々の骨を砕いた粉が入っていました。

とても残酷なことを平気で出来ていたのです。

 

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 2階に上がると当時のユダヤ人収容者が隠し撮りした無比の写真に、ガス室へ入る直前の裸の女性と薪をくべた死体焼却の様子が写っています。そばにはチクロンBの使用済み缶が山積みにされていました。これはガス室に投げ込まれたものなのです。まるでネズミを駆除するように・・。人間扱いはされなかったのです。

 

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今回異様な雰囲気というか、とても凝視できない怖ろしい気配がしていた場所が2箇所ありますが、その1つが撮影禁止となっている5号室の実物でした。そこには2トン近い女性の髪が山積みになっていたのです。さすがに私は氣分が悪くなり凝視することができず、まっすぐ出口へ向かいました。血が通っていた髪の毛ですから、遺体扱いになっているために遺族の気持ちを考慮して撮影は禁止ということでした。それにしても悲惨です。アウシュヴィッツ全体で約131000人の女性被収容者が登録されており、被収容者40万人のうち30%を占めていました。選別時に労働不能とみなされた数多くのユダヤ人女性、老人や障がい者、病人、あるいは子ども連れの母や妊婦は、連行後すぐにガス室で殺されていたそうです。なんとこの新しい地に着いてすぐ死に向かうことなど想像すら出来ません。

 

第5棟 重犯罪の証拠

 f:id:muschool:20171009183941p:plain 1号室にはメガネの山、2号室には義足の山、3号室は鍋、皿などの日用品、4号室は収容所強制移住のユダヤ人のトランク、トランクには名前が書かれていましたが、二度と自分のトランクを手にする人はいなかったようです。子どもの服や靴も多数ありました。5号室は移住者の靴の山、6号室には髪ブラシ、歯ブラシ、洋服のブラシなどがありました。

 

第6棟 被収容者の生活

 新来者によって収容所の登録手続きは、心的外傷を負う経験でした。

f:id:muschool:20171009184203p:plainドイツ語の命令が理解できない被収容者は、しばしば親衛隊や被収容者の古参(カポ)から嫌がらせや撲打を受けました。1階の廊下には、囚人番号や姓名、生年月日、職業、収容所連行日、死亡日を含む情報が入った男女の収容所用の写真がいくつも飾ってありました。この廊下に立つと、この写真の全ての被収容者からこちらを睨みつけられているような感覚が襲います。

 私達は普段の生活においても同じ様に多くの他人から観られているのです。いつも梅谷先生が鏡を前において自分の表情をチェックすることを心がけなさいと言われる意味が良く判ります。

 

 この写真にある人は全てこの収容所でお亡くなりになったのですが、その生存日は、わずか3~4日が殆どなのに対して、中には1年、2年、3年と生きていた人もおられましたので、そのような方はある意味で尊敬の対象になっていたようです。どのような精神状態を保てればそれだけ生きたいという思いを維持できるのかは、私にはまだまだ実感できていないことでした。ただ、フランクルの提唱するこの世に生まれた使命を素直に受け入れ、善い精神状態をこの場所でも本当に維持継続ができるのであれば可能であることはよく理解できました。私達は、何も障害がなく、何も不自由がないがため、自分の最も楽な精神状態ばかりを追い求めて生きているようで、とても恥ずかしくなりました。他人から言われたことしかできなかった人、また言われたこともできなかった人は、その場でボコボコにされ命を落とすことは日常茶飯事であったのでしょうが、そんなことすら何も考えずに、楽と得を求めて生きてきたことは反省すべき点です。

「自らが楽と得を求めるならば、まずは相手に与えよ」ですね。

 

 1号室には収容所の日常を描いたアウシュヴィッツ元被収容者、

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ミエチスワフ・コシチェルニアクとヴァディスワフ・シフカの絵があります。被収容者はカポに追い立てられながら住居を整理整頓して洗面や排泄に努め、その後の長時間の過酷な肉体労働に出て、死亡または殺害された仲間の遺体を担いで日没前に収容所に戻るという毎日でした。

 

 4号室には収容所登録時に撮られた子どもの写真が飾ってあります。f:id:muschool:20171009184154p:plain

1942年からドイツはアウシュヴィッツへ女性を送り始め、その中に妊婦もいました。一年以上の間、収容所で生まれた子どもはほとんどがフェノール注射で毒殺、あるいはバケツの水で溺死させていました。1943年半ばからユダヤ人以外の女性から生まれた子どもは活かし、それでも登録して囚人番号を付けました。アウシュヴィッツでは少なくとも700人の子どもが生まれ、60人余りが開放まで生き延びました。この方は、双子の姉妹の生存者です。紙には、This is me.と書いてあります。

 

第7棟 住居、保健・衛生の環境

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被収容者が寝泊まりしていた場所には最初は藁が引かれていましたが、その後に藁布団から三段の簡易寝台に代わっています。収容所は人で溢れかえっていたので、理論上は二階建ての棟を約700人用としていましたが、実際は一度と無くその数を越えていました。洗面所やトイレも水洗でしたが使用時間はとても短くしたりして困らせていたのです。これだけでも耐えられない現代人が殆どでしょう。トイレで煙草をふかせ、新聞を読むなんてもっての他です。そんな些細な習慣も、ここに来れば贅沢そのもののように感じます。

 

 

中庭

 ここは、銃殺刑が行われた”死の壁”があります。

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ここで私達一人一人が用意していた花束(色とりどりの薔薇の花)から一輪ずつ献花し、岡田剱零書の般若心経を捧げ、このような惨劇が二度と繰り返されないことを静かに手を合わせてお祈りしました。

 私達は他の訪問者と違って、遊び氣分でも観光氣分でもないという気持ちが強かったため、きちんとネクタイを締め、正装に近い服装をまとっての参拝をしま

した。その中庭の周りの建物の窓は覆われ、収監された被収容者が処刑を見られないようにしてありました。 しかし、この場所にはすでに浮かばれない魂はないようにも感じました。何故でしょうか。ちょっと不思議なほど、この場所は恐怖を感じなかった場所でもありました。やはり献花や手を合わせることで魂は少しでも救われているのでしょうか。

(※写真は死の壁の前で献花した様子)

 

第11棟 収容所の監獄

 ここは、収容所の拘禁所です。とりわけ懲罰班の被収容者や警察囚人(ゲシュタポに逮捕されたポーランド人)、そして釈放を待つ被収容者が一階と二階に収監されていました。ここには、被収容者を助けたことで逮捕されたり脱走に失敗した人もいました。

収容者仲間の報復として餓死を宣告された人も監獄に入れられました。

 

 1941年9月初めからナチは地下でチクロンBを使った最初の大量殺害を試行しました。棟の中庭では、銃殺や絞首刑を執行したり、いわゆる宙づりや鞭打ちの懲罰を科したのです。地下の監獄も実際に目にすることになりましたが、

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廊下の反対側の22番と記された処には直立房がありました。ここにはそれぞれ4人がびっしりのスペースしかなく、立ったまま真っ暗なところで三晩から十晩閉じ込め、朝は労働に出されたのです。ここで生きていられることすらが不思議に思えました。(※右写真は直立房)

 

第20棟 毒注射  (※ここは入りませんでした)

 1941年8月に収容所病院が患者で溢れかえったため、ドイツは病人をフェノールの心臓部注射で殺し始めたのです。既決囚を部屋へ入れ、椅子に座るように命じると、衛生兵は心筋に針を直に刺し、数秒で死に至らしめたのです。

 

 その衛生兵の心理も驚くものですが、私が今現在働いている現場には、牛や豚を食肉にする解体市場があります。最初に銃の様なものを用いて一撃で牛や豚を即死させるようです。牛や豚でも撃つ前は分かるようで涙を流しているそうですが、その人の眼をじっと見つめてくるのを無視して射殺できる人も、この世には存在するということです。そんな素質の人を選んでいるのか、仕事上そうなってしまったのか分かりませんが、本当に人間の精神は怖いところがあります。その他の帰り道には、集団絞首台や点呼広場

があります。

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※写真左から、集団絞首刑場所、ガス室内部、チクロンBが投げ入れられた穴、所長の刑台                      

 そして、最後の出口手前には収容所所長の住んでいた家からすぐそばにある所長が処刑された場所とその隣にはアウシュヴィッツ唯一のガス室がそのままの形で残されていました。ガス室に入るのは抵抗があるのかなと思いましたが、足が前に進んでいました。ここも異様なものは何も感じられず、ひっそりと静まりかえった地下という感じです。

  

2017年9月16日(土曜日) 

 この日に訪れた棟は、前日視察したおきまりのコースではなく、それ以外の普段2日間6時間をかけないと見て回ることができない棟にも訪ねることになりました。

 このアウシュヴィッツ=ビルケナウの旅を含んだポーランド旅行パックツアーなどでは、比較的安価で行くこともできるのですが、こうやってネクタイを締めて、献花を用意し、皆で一輪ずつ捧げることを含めた訪問などは個人旅行で中々思いつきもしなかったことでしょう。訪れる場所の歴史や、そこに存在していた人々の気持ちをしっかりと学ばないといけないとも感じました。もし、次に訪問する機会があれば、この場所に存在した人の中で、ガス室に送られた人、生き延びた人、カポ役の人、行き先を選別していた人などの立場でその場その場で目を閉じてじっくり感じることができるでしょう。

 

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 その他の棟には、各国の強制移住者の命運について、それぞれの国の視点から展示がされていました。また、案内して下さった2日間専用バス内や他の観光地でもガイドを勤めてくださったアンナさんの説明にも熱のこもったものがありました。こんなことは文字に残すべきでは無いかも知れませんが、小さな頃、お婆ちゃんからユダヤ人の話をよく聞かされていたそうです。彼女のためにも、詳しい内容は書くことができませんが、だからこそ、何も経験したことがない中谷さんとはまた違った観点からこの場所を感じることが出来たのかも知れません。それにしても、現地のガイドは、女性でも歩く速度がとても速いのには驚きましたが、私のペースでは丁度良い感じでしたが。最後は足も疲れるはずです、2日間で30キロ歩きました。

 

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