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3.ユダヤ人強制居住区域(ゲットー)の歴史

 ゲットーが形成されたのは、文化的、宗教的に少数派であるユダヤ人が中世ヨーロッパにおいて異質なものとしてみなされたためです。結果として、ユダヤ人は多くの都市で厳しい規則のもとに置かれました。ゲットーは時勢によって性格を異にし、ヴェネツィア・ゲットーのように比較的裕福な住民が集まるものがあった一方で、ひどい貧困状態にあり人口増加にともなって街路が狭く住宅が高層密集するものも存在していました。 ポグロムから身を守るために内側から、あるいはクリスマスや過越そして復活祭の際にユダヤ人が出てこられないように外側からゲットーの周囲には壁が築かれました。

 

ナポレオンによるゲットーの解放

 フランス革命後、18世紀末以降西ヨーロッパ諸国では、フランス革命ならびに当時の自由主義運動を背にしたナポレオンがユダヤ人解放とともに各地のゲットーを解放しました。1870年頃にはローマのゲットーが、ヨーロッパに残ります。法文による最後のゲットーとなっていましたが、ナポレオン失脚後、再びユダヤ人の生活には制限がかけられるようになり、アメリカへ移住するユダヤ人が大量に生まれることになったのです。また、他方でロシアや東欧諸国のゲットーは20世紀にいたるまで存続しました。

 

ポーランド

 第二次世界大戦で、ドイツに占領されるまでポーランドにはユダヤ人自治区「シュテットル」こそあれ、「ゲットー」というものがまったく存在していなかった事実となるような、クラクフのカジミェシュ地区のように、シュテットルのすぐそばに国家にとって大事な立場にある教会が建てられていることもありました。13世紀のカリシュの法令以来ヨーロッパの他国と異なり民族的に寛容な政策を国家・社会の根幹となす伝統としていたポーランドでは、ユダヤ人はごく一部の大都市の旧市街を除いて、基本的にどこでも自由に住むことができたのです。その旧市街でさえもユダヤ人居住制限が近世にどんどん緩和されていきました。

 

ナチスによるゲットーの復活

 第二次世界大戦時、ナチスはユダヤ人を非常に狭い地域に押し込めるために、東欧諸都市に「ゲットー」を復活させたのです。1939年以降、ナチスはポーランド国内のユダヤ人を大きな都市の特定地域に移動させ始め、1940年10月には占領下最大規模のワルシャワ・ゲットーが設けられるなど、多くのゲットーが1940年から1941年にかけて設定されたのです。

 

 その後、ゲットーはホロコーストにおける事実上の強制収容所となりました。ゲットーの生活は過酷を極め、伝染病や飢餓などによって数多くのユダヤ人がその命を落としたと言われます。1942年、ナチスはホロコーストの絶滅収容所へ強制移送を始めますが、ヨーロッパ各地のユダヤ人が東欧のゲットーもしくは直接に絶滅収容所へ移送され、ワルシャワ・ゲットーからだけでも52日間で30万人もの人が、トレブリンカ強制収容所へ移送されました。ワルシャワ・ゲットー蜂起をはじめとして、いくつかのゲットーでは武装蜂起が発生しましたが、どれも失敗に終わり、ゲットーのユダヤ人はほ

ぼ完全に殺害されたのです。

 第二次世界大戦中の1940年以降、東欧

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諸国に侵攻したドイツは、占領地にゲットー

を設けて、現地のユダヤ人を強制的に移住させました。特にポーランドに侵攻・併合した後、ワルシャワのユダヤ人に居住を強制したゲットーはワルシャワ・ゲットーの名前で知られています。ワルシャワ・ゲットーは38万の住人を抱えるナチス占領下ヨーロッパで最大のゲットーとなりました。

 ゲットーは出入り禁止とされ、ユダヤ人たちは、ダビデの星を腕などにつけさせられ、1942年の移送と1943年の親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー掃討でトレブリンカやアウシュヴィッツ等のユダヤ人強制収容所に移送されるまでそこに住みました。監視が厳しく、外は高く厚い壁と脱出防止の電線や有刺鉄線が敷かれ、逃亡を見つけられたユダヤ人はみな射殺されたのです。

 

 ゲットーの中は悲惨な状態でした。ワルシャワでは人口の30%が市域の2.4%に住まわされ、平均して一部屋に9.2人が暮らす密集具合でした。かつて5家族が生活していた空間に700人が暮らすゲットーもありました。ワルシャワで配給される食料は、ポーランド人一人当たり669kcal 、ドイツ人一人当たり2,613kcalであったのに対し、ユダヤ人一人当たりでは253kcalでした。しかし、外出することが許されなかったため、この食料に頼るしかありませんでした。下水設備などはほとんどなく、密集した生活環境と極端な食料不足により、伝染病の流行や飢餓で何十万もの人が死に至りました。それでも、中にいたユダヤ人たちは少しでも前の生活に戻ろうと、学校や診療所を設けたり、コンサートを開いたりもしたのです。ゲットーの外では非ユダヤ系ポーランド人たちによって「ジェゴタ」の暗号で呼ばれる秘密組織「ユダヤ人救済委員会」が設立され、彼らはありとあらゆる手段でゲットーのユダヤ人たちを支援しました。 イレーナ・センドラーや、1990年代にポーランドの外相となる若き日のヴワディスワフ・バルトシェフスキもジェゴタの中心メンバーで、ゲットー内のユダヤ人を助けようと必死に活動しました。(ユダヤ人救済活動が発覚すればドイツ人によってその場で銃殺されることになっており、自分だけでなく家族もドイツ人によってすべて殺される可能性があったのです)。子どもの権利条約の元になった「子どもの権利」の提唱者、ヤヌシュ・コルチャックとその孤児院の子どもたちもここから、トレブリンカ強制収容所に送られました。

 

 第二次世界大戦は1939年9月、ナチスドイツ軍が隣国ポーランドに侵攻したこと

f:id:muschool:20171009183734p:plainからはじまりました。ポーランドはあっというまにドイツに占領されます。大戦前、ワルシャワ市民の30%はユダヤ人でした。戦争が始まると、ユダヤ人たちはゲットーと呼ばれる居住地区に閉じ込められます。ナチスがヨーロッパ各地に設けたゲットーの中でも、ワルシャワゲットーは約300ヘクタールの土地を3mの壁で囲い込み45万人以上を収容できる最大規模のものでした。そしてユダヤ人たちは次々にゲットーから強制収容所へと移送されていきました。1943年4月19日、ゲットーのユダヤ人たちはナチスに対する武力闘争を開始します。しかしこの「ワルシャワゲットー蜂起」は1か月足らずで鎮圧されます。生き残った人々の多くも虐殺されました。この事件を記憶にとどめ犠牲者を慰霊するのが、この「ワルシャワゲットー蜂起記念碑」です。かつてのワルシャワゲットーの跡地に建てられています。蜂起5周年の1948年に完成。中央の人物は蜂起を指導したモルデハイ・アニエレヴィッツです。

 

 1970年12月7日、この「ワルシャワゲットー蜂起記念碑」を訪れた西ドイツのブラント首相は、記念碑の前で突然ひざまづき、ナチスの罪を謝罪しました。首相の予定外の行動に関係者一同は大いに驚きました。ブラント首相はこの年にポーランドと西ドイツの国交正常化条約に調印し、その功績で翌年ノーベル平和賞も受賞しています。

 2017年7月、アメリカのトランプ大統領はワルシャワを訪問した際、長女のイバンカ報道官を「ワルシャワゲットー蜂起記念碑」に赴かせ、自分は足を運びませんでした。これにより彼は、過去25年でここを訪れなかった唯一のアメリカ大統領となりました。大統領が「行った」ことではなく「行かなかった」ことがニュースになる記念碑なのです。

 

2017年9月13日 水曜日(出発前日)

 午前中、事務処理を済ませてから、福岡空港14:10発ジェットスターにて関西空

港に移動し、りんくう駅直結のANAゲートタワーホテルに前泊することにしました。

 いよいよ明日からポーランド入りです。ドキドキ、ワクワクで中々眠れませんでした。

 この日までの半年間は、「本心は行きたくない...でも行けば何か感じるだろう」と思いが交差する連続の日々でした。行きたくない一つの理由は旅費です。私は今回の旅費用として100万が貯まっていたのですが、折角お金を排出するのであれば、もう一度行ってみたいパラオ諸島のダイビングクルーズ船や5年おきに世界防災展が開催されているドイツに使いたいと考えていました。今思うと、かなりの凡人でしたね。ただ、

もう一つは憑依の恐さでした。あれだけの人がお亡くなりになった場所に行くにはそれだけの覚悟も準備も必要でした。過去には、私もある霊に取り憑かれて2週間ほど眼が開けられず床に伏せていることしかできなかった経験がありましたので、家族も最後まで反対し心配をしていました。特に2つ目の理由は最後まで尾を引きました。

 

2017年9月14日 木曜日(出発初日)

  7:30のホテルから関空までの無料リムジンバスに乗車し、7:40過ぎ関空に到着しました。バスを降りようとしたら、何と目の前に伊藤会長によく似た方がおられるではありませんか。なに?まさかお見送りのために前泊して名古屋からお越しなのか?と一瞬自分の目を疑いましたが、どんなにゆがんで見ても本物の伊藤会長でした。

 私は伊藤会長が参加できないことで少し今回の開催にも違和感があり、今回は「マエストロの会の研修ではない!」という思いがありました。しかし、会長のお顔を拝見して、そんなことなどどこかに飛んでいくどころか、感動で涙さえ溢れそうでした。

さすがマエストロの会の会長ですね。やることが違います。大変感激致しました。

 

 8:00 集合時間には名古屋の7名と広島の河野社長がすでに集まっておられ、梅谷先生のご到着をお待ちしておりましたが、その後奥さまに車で送られて到着し、全員で大きな荷物を預けてから、関空で会長と奥さまを加えた記念写真をパシッと撮影。

 その後、伊藤会長と奥さまにお別れをして、出国審査から手荷物検査を済ませて搭乗ゲートで少しだけ待ち、10:00発のフランクフルト行きルフトハンザ航空LH741に搭乗しました。約11時間30分のフライトに人生初挑戦でした。これがこの旅一番の試練だろうなと思っていましたが、意外と時間が過ぎるのが早く感じました。

 11時間30分の過ごし方は、ビデオを1本観ては一眠りを3回繰り返し計9時間。帰ってからの防災座学講師の予習を1時間、機内での食事を2回とトイレ3回で合計11時間30分が経過したのです。じっくり読み耽ることができるような本を2冊ほど持っていけばさらに時間は早く感じたのかも知れません。

 

 14:50(日本時間:21:50)にフランクフルト空港到着です。乗り換えの時間が1時間20分しかないので大丈夫なのかと心配しながらも、何とかクラクフ空港行きの同じルフトハンザ航空LH1368に乗り代えることができました。

 やはり、乗り換えには2時間かかりましたので、予定通りLH1368が出発していたら乗れなかったのです。今回は運良く、乗り代えの飛行機も出発が遅れていたため、急いでゲートに到着した時点が搭乗開始時間となっただけで、危なかったのですよ。

 帰りは乗り代えに1時間しかないのに本当に大丈夫かな?という思いがありましたが、まさかそれが現実になるなど、この時点では知るよしもありませんでした。

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19:30過ぎ(日本時間:午前2:30過ぎ)クラクフ空港に到着です。写真を観ると、モーセの十戒の海のように空がぱっくり割れ、我らを照らしていました。
空港からは、専用バスに乗って滞在ホテルであるベストウェスタン プリミエに到着したのが20:00過ぎでしたが、とにかくホット一息するため、一杯ビールを飲みたいということになり、荷物を各自部屋に置いてからすぐに1階のレストラン&バーにて集合し、一息を入れた「乾杯」のビールはとても身に染みて美味しかったです。ドイツも美味しいビールがいっぱいありますが、ポーランドビールもやはり美味しかったです。宿泊する部屋も広く、WiFiも快適に使えたので一安心して、ぐっすり眠ることができました。

 

2017年9月15日(金曜日)

 朝6:30モーニングコール、7:00から1階レストランで美味しい朝食を摂り、8:30ロビーに集合して専用バスに乗り込んで、今回の目的地であるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所があるオシフィエンチムの町に向けて出発しました。

 この日は少し車が混んでいたようで、1時間30分の道程でしたが、綺麗な田舎の風景が続き心を和ませてくれました。ポーランドの交差点はどこも中心に花壇や芝生を丸く形取りした円形のロータリーを設け、その周りを早いもの勝ちみたいな感じで、それぞれの方向から来た車が進路を変更していくのです。よく事故が起きないなとも思いましたが、この旅で見た事故現場は1回だけ。それも直進の高速道路上でしたので、人種が穏やかで比較的に安全運転されているのでしょう。

 

※このレポートに掲載した歴史的な情報に関する資料は以下の文章から転記または引用いたしました。

1.㈱ベネディクト 地球歴史館
   週刊スモールトーク(第60話)
   ユダヤ人が迫害される理由Ⅰ~ユダヤ人の歴史~

2.Reloaded
   「未来を知りたいんだ・・・今からそれを見つけるんだ」
    2016.7.21の投稿記事
    3分でわかる! ユダヤ人が迫害されたワケ

3.アウシュビッツ=ビルケナウ公的ガイドブック

4.ウィキペディア(フリー百科事典) ゲットー

 

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